「完了」と「完成」は似た言葉ですが、指しているものは違います。
完了は時間軸の終点に属します。やるべきことが終わったかどうか、という問いです。一方、完成は「いま、どこまで充実しているか」に属します。終わったかどうかではなく、中身がどれだけ満ちているかという問いです。
この二つを混同しないだけで、仕事や人生の見え方はずいぶん変わります。
この違いを「目的」と「目標」に当てはめてみます。
目的は、何のために行うのかを示します。到達すべき終点があり、果たせば「完了」します。目的は「終わらせる」方向にあります。
目標は、何を目指して行うのかを示します。その時々の行為や成果をより良くしていくもので、一つ達成しても、さらに次の完成へ進めます。目標は「高めていく」方向にあります。
目的は完了になじみ、目標は完成になじむ、というわけです。
では、人生そのものの目的はどうでしょうか。
人生には、最後まで到達して「終わった」と言えるような目的はありません。生きている限り、目的は開かれたままです。だから人生の目的には「未了」がなじみます。完了を目指すのではなく、未了のまま生き続けるのです。
一方、日々の営みには完成を求められます。畑を耕す、種を播く、収穫する、文章を書く。その時々の行為は、「ここまでできた」と言える形で完成させられます。ただし、その完成が人生全体の完了を意味するわけではありません。翌日には、また新しい目標が生まれます。
人生は未了である。しかし、今日という一日は完成できる。
凝縮すると、こうなります。
人生は未了のまま、日々を完成していく。
人生に最終的な「完成」を設定する必要はありません。目的を一つひとつ完了させながら、その過程で目標を更新し、行為を完成させ続ければよいのです。
この見方に立つと、「永久の未完成、これ完成である」という言葉も、単なる「未完成だから完成」という逆説には聞こえなくなります。完了しない生の中で、その瞬間ごとの完成を重ねていく。そういう意味で受け取ることができます。
この構造は、アドラー心理学の考え方にもきれいに重なります。
人生の目的 = 共同体感覚
日々の目標 = 他者貢献
共同体感覚は、「これで達成した」という地点に到達して終わるものではありません。他者との関係の中で、自分を理解し、相手を理解し、社会の一員として生きる限り、終点はありません。だから「未了」がなじみます。
他者貢献は、毎日の具体的な行為です。
今日、誰かの役に立つ
仕事をする
農作物を育てる
文章を書く
誰かに何かを伝える
一つひとつの行為には「ここまでできた」という完成があります。そして翌日には、また新しい他者貢献が始まります。
共同体感覚は、完了しない人生の目的。他者貢献は、その目的を生きるための日々の目標。
人生は未了、行為は完成。目的は共同体感覚、目標は他者貢献。
人生という終わりのない旅の中で、今日の仕事を完成させる。「完了」を待たずに、いまこの瞬間を充実させて生きる。それが、この整理から見えてきた生き方です。
ここで、現代社会が当たり前のように設定している「定年退職」や「リタイアメント」を考えてみたくなります。
多くの人は、定年を労働という大きなタスクの完了、つまり人生のゴールのように捉えています。しかし、ここまでのロジックに従えば、会社を辞めることは共同体とのつながりが途絶えることでも、人生が完了することでもありません。
だとすれば、月曜日の朝に通勤するオフィスがなくなった後、日々の他者貢献の完成は、どんな形に姿を変えるのでしょうか。庭の草むしりかもしれませんし、近所の子どもたちに何かを教えることかもしれません。
定年退職は完了ではなく、新しいステージでの「日々の完成」の始まりに過ぎません。
そのとき問われるのは、企業から与えられた目標、つまりノルマがなくなったあとで、自分自身で完成させるべき行為は何かということです。
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