嘘は善悪の問題である前に、人間に備わった本能ではないか。そしてその本能を制御できるかどうかこそが、理性であり社会的成熟なのではないか。これが本稿の出発点となる問いです。
この問いを立てると、これまで説明しづらかった「なぜ嘘のつき方には文化差や個人差があるのか」という疑問にも、自然な答えが見えてきます。
嘘をつく傾向そのものは、人類に共通する本能的な土台である
しかし、いつ・どの程度・どんな形でそれを発現させるかは、理性と社会的成熟の働きであり、ここに個人差・文化差が生まれる
つまり「本能=土台」「制御=理性」という役割分担です。この整理によって、善悪の評価が生まれる場所も明確になります。嘘という行為そのものに善悪があるのではなく、その制御の仕方に善悪が宿る、という見方です。
赤ん坊は嘘をつくか ―― 定義そのものを疑う
この仮説を検証する上で、避けて通れない問いがあります。赤ん坊は嘘をつくのか、という問いです。
発達心理学の知見を整理すると、一般的にはこう説明されます。
乳児期(0〜1歳) には、狭い意味での「相手を騙す意図」を持った嘘はまだつけないとされます。嘘をつくには「相手が自分とは違う情報や信念を持っている」ことを理解する必要があり(いわゆる「心の理論」)、これが未発達だからです。ただし、生後6ヶ月頃から見られる「偽泣き」――本当に痛くも辛くもないのに親の注意を引くために泣き、一瞬泣き止んで反応を確かめる行動――のような"萌芽"は早期から観察されており、2〜4歳頃に心の理論が育つと、明確な意図を持った嘘が出現します。
しかし、ここで立ち止まる必要があります。この説明は「嘘には意図の自覚が必要だ」という学問的な定義を前提にしています。その定義そのものを採用しなければ、答えは変わってきます。
赤ん坊は嘘をつく。なぜなら、嘘は本能だからだ。
これが、発達心理学の整理とは異なる、もう一つの立場です。学問的な定義は「相手を騙す意図の自覚」を嘘の条件として課します。しかし、その"自覚"や"意図"こそが、後から乗ってくる理性・社会的成熟の産物であって、嘘という行為の本質そのものではない、と考えることもできます。
偽泣きはその典型例です。赤ん坊は「泣けば構ってもらえる」という認知的な計算をしているわけではありません。しかし本能のレベルで、実際の苦痛とは切り離された表現を使い、他者の行動を引き出すということを、生まれてすぐにやっています。意図の有無にかかわらず、機能としては紛れもなく「嘘」 だと言えるのではないか。
この立場を取ると、議論はこう繋がります。
嘘は、意図や理性の有無に関係なく、生まれながらに存在する本能である
成長するにつれて、理性・社会的成熟がこの本能を「制御」するようになる
その制御の仕方(いつ・どう使うか)に、善悪という評価が初めて生まれる
つまり、嘘そのものに年齢による有無の差はなく、あるのはただ「制御の有無・巧拙」の差だけ、ということになります。発達心理学が「嘘の出現」と呼ぶものは、実は嘘の誕生ではなく、すでに存在していた本能に理性が追いつき、それを自覚的に使い始める瞬間――嘘の"制御化"の始まりなのかもしれません。
ここでさらに議論を一段深めます。嘘と盗みは、根っこでは同一の本能から生まれる、同じ一つの行動ではないか。「心の境界を越える」か「モノの境界を越える」かという、現れ方の違いに過ぎないのではないか、という見方です。
両者に共通する、より根源的な定義を立てるとすれば、こうなります。
本来、他者の領域にあるはずのものを、自分の領域に取り込む行為
嘘:本来「事実」は共有されているべきものなのに、相手にだけ異なる情報を与え、自分だけが真実を握る状態をつくる ―― いわば 情報の独占
盗み:本来相手の所有物であるものを、自分のものにする ―― モノの独占
どちらも「境界を越えて、他者の側にあるものを自分の側に移す」という、構造としては同一の動作です。嘘は「見えないもの(情報・信念)」に対して、盗みは「見えるもの(モノ)」に対して、同じ操作を行っている。
この統合が正しいとすれば、「本能」そのものの正体にも一歩踏み込めます。嘘や盗みが本能だとするなら、その本能とは結局、境界を越えて自分の取り分を増やそうとする衝動、つまり生存と拡大のための根源的な自己中心性そのものではないか。生き延びるためには、情報であれ資源であれ、自分の側に多く持っておいたほうが有利だからです。
これを踏まえると、議論全体は次のように一本につながります。
生存本能 ―― 自分の取り分を増やそうとする衝動(嘘・盗みに共通する根)
その衝動が、対人関係の中では「嘘」、対物の関係では「盗み」という形で現れる
理性・社会的成熟 が、この衝動をいつ・どう発現させるかを制御する
その制御の仕方によって、初めて 善悪の評価 が生まれる
嘘も盗みも、それ自体は生存のための本能的な衝動の表れにすぎません。それを「いつ・どの程度・どんな形で」発現させるかを見極める力こそが理性であり、その理性が働いているかどうかが、私たちが「善悪」と呼んでいるものの正体なのかもしれません。
理性の仕事は「抑制」だけではない
ここまでの議論では、理性・社会的成熟を「本能を抑え込むもの」として扱ってきました。しかし、これは本能というものを一様に捉えすぎた結果かもしれません。
盗み(所有物の独占)の場合、理性の仕事はほぼ「抑制」に尽きます。盗みが社会の中で機能的に良い方向に働く場面は、通常考えにくいからです。単一の動機から発する単一の本能であり、理性はただそれを抑え込むだけでよい。
しかし、嘘についてはそう単純ではありません。嘘や欺瞞は、時に社会の潤滑油として機能します。本音をすべてそのまま口にしないこと、相手を気遣って事実を多少和らげて伝えること――これらも広い意味では「嘘」であり、対人関係を円滑にする働きを持っています。
ここで注意すべきは、これを「一つの嘘という能力が、場合によって悪用されたり良く使われたりする」という話として捉えるべきではない、という点です。他人を陥れる嘘をつく瞬間の心の動きと、相手を気遣って本音を和らげる瞬間の心の動きは、質的にまったく別のものです。前者は緊張・警戒・打算を伴う認知的な作業であり、後者はむしろ共感や気遣いから自然に出てくるものです。按配ひとつで善悪が入れ替わる同一の能力なのではなく、そもそも出発点が異なる、二つの別々の本能なのだと考えるべきでしょう。
この二つの本能は、理性による扱われ方もそれぞれ異なります。
害する嘘(相手を欺いて利益を奪う、信頼関係そのものを壊す、事実を歪めて他者を陥れる):これは盗みと同型の本能であり、理性の仕事はほぼ抑制のみです。研磨してもよい嘘になるということはありません。
潤す嘘(関係を気遣い、円滑にする方向への嘘):これは抑制よりも、いつ・どの程度・どんな形で用いるかという「研磨」が理性の主な仕事になります。行き過ぎへの軽い抑制は必要ですが、それは副次的なものです。
つまり、当初「一つの嘘という本能に対して理性が抑制と研磨の両方を行っている」ように見えたのは、実際には出発点の異なる二つの本能――抑制のみを必要とする本能と、研磨のみを必要とする本能――が並立していたことの、見かけ上の効果だったことになります。
一方で、贈与や分配のような、独占本能(盗み)とは別系統に存在する「与える本能」を考えると、これはまた違う型を示します。贈与は、過度になれば自分や家族を困窮させたり、相手に依存関係や負い目を負わせて支配の道具になったりする点で抑制を必要とし、同時に、誰に・いつ・どの程度・どんな渡し方をするかという点で研磨も必要とします。つまり贈与は、単一の本能でありながら、抑制と研磨の両方を同時に必要とする本能です。
整理すると、こうなります。
同じ「理性が本能を制御する」という営みでも、その内実は一様ではありません。ある本能は抑えるだけでよく、ある本能は磨くだけでよく、そしてある本能は、抑えることと磨くことの両方を同時に必要とする。この違いを分けているのは、その本能がそもそも単一の動機から発するものか、複数の異なる動機系がたまたま同じ行動として現れているものか、という出発点の違いなのだと思います。
ここまでの議論を整理すると、次の四層構造にまとまります。
1. 本能(全人類共通の土台)
ここは、単一の衝動が後から枝分かれしていく土台ではありません。むしろ、出発点からして複数の異なる本能が並立している層です。所有物を奪おうとする衝動(盗み)、相手を害してでも利益を得ようとする衝動(害する嘘)、関係を円滑にしようとする衝動(潤す嘘)、資源を分け与えようとする衝動(贈与)――これらは互いに同根の一つの衝動が発現形態を変えたものではなく、最初から別々に存在する本能です。
2. 自我の形成(発達段階として概ね共通)
自分と他者の境界が引かれることで、1で並立していた複数の本能が、初めて対人関係の中で機能する形を取り始めます。「奪う」という行為も「気遣って和らげる」という行為も、自他の境界が存在して初めて意味を持つからです。つまりこの層の役割は、一つの本能を二方向に分岐させることではなく、もともと別々に存在していた本能群のそれぞれに、対人関係という舞台と発現のかたちを与えることにあります。
3. 個性(気質・環境・経験が絡み合い、説明しきれないもの)
1で並立する複数の本能それぞれが、どの程度の強さで現れるか、どんな場面で発動しやすいか、その配合と傾きを決める、個人差そのもの。本能でも理性でもない、いわば第三の領域です。
4. 理性・社会的成熟
1〜3を通じて形作られたものを、最終的に制御する役割を担います。ただしその制御は、一つの本能に対して一様に「抑える」だけでも、あるいは状況に応じて「抑えたり磨いたり」するだけでもありません。並立する本能それぞれの性質に応じて、働き方そのものが異なります。盗みや害する嘘に対してはほぼ抑制のみを行い、潤す嘘に対しては主に研磨を行い、贈与に対しては抑制と研磨の両方を同時に行う――理性は、対象となる本能の型を見分けたうえで、それぞれに適した働き方を使い分けているのです。加えて、3の「個性」がどう表に出るかを調整するのも、理性・社会的成熟の仕事です。
ここで重要なのは、理性の管轄範囲が単なる「本能の抑制装置」から、複数の異なる本能・そして個性の表れ方までを含めて制御する、より上位の装置へと位置づけ直された点です。しかもその制御は、対象ごとに「抑制のみ」「研磨のみ」「抑制と研磨の両方」という異なる様式を取り分ける、きわめて繊細な働きだということが見えてきました。
最後に
ここまでの議論が示しているのは、本能や個性という土台そのものに優劣をつけることの無意味さです。それらは選び取られたものではなく、与えられたものだからです。人にできることは、その土台の構造――どの本能が並立し、どう配合されているか――を正確に理解し、その上で理性・社会的成熟によってどう制御していくかを磨き続けることだけです。
したがって、その人の本当の価値を決めるのは、与えられた本能や個性の中身ではなく、理性や社会的成熟の有無や完成度なのだ、という結論に至ります。
この結論に至るまでには、私自身、先天的に与えられたものそのものを無くしたい、変えたいと考えていた時期がありました。しかし今は、それを受け入れることだと考えています。そのうえで、絶えず自己と対話しながら、理性によってどう制御していくかを模索し続けること――それこそが、この四層構造が示す実践的な結論なのだと思います。
そして、この自己との対話には、ひとつだけ避けて通れない工程があります。※孤独の中でしか聞こえない声がある。その声に耳を澄ませることで、私たちはようやく「本当の自分」と向き合えるのかもしれません。
※この一節については、拙稿「孤独の意味」でさらに掘り下げています。
→https://sites.google.com/view/ostinatoink/psychology/kodoku_1