人生は未了でも、今日という一日は完成できる
目標・目的・完成をめぐる考察 ― 野菜の収穫から見えたアドラー心理学の新しい読み方
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目標・目的・完成をめぐる考察 ― 野菜の収穫から見えたアドラー心理学の新しい読み方
By Artfarmer2026年11月21日
「目標」と「目的」。似ているようで、実は問いかけの種類がまったく違います。
最近、この二つの言葉の使い分けを、農業の現場、つまり野菜の収穫を例に考えていました。そのなかで、「人生は未了だから、毎日が楽しい」という実感に、一本の筋が通る見方にたどり着きました。この記事では、その思索の道筋を整理してみます。
出発点は、次の使い分けです。
目標には「達成か、未達成か」を使う
目的には「完了か、未了か」を使う
目標は、あらかじめ設定した到達点に対して、実現できたかどうかを問うものです。一方、目的は「何のために行うのか」という行為の方向性に関わります。問われるのは、その営みが終わったのか、まだ続いているのかです。
この区別に立つと、目標は達成・未達成という結果で評価できます。しかし目的は、必ずしも一度の完了を求めるものではありません。
農業で考えてみましょう。
目標:今年、野菜を収穫する(たとえば2キロ)
目的:農業を通じて、人々の暮らしに貢献する
収穫量の目標は、達成すれば一区切りです。けれども、人々の暮らしへの貢献は、一度の収穫で終わるものではありません。
目標は結果を問い、目的は営みの継続を問うのです。
次に浮かんだのが、こんな疑問でした。
目標にも目的にも、「完成・未完成」を使ってよいのではないか。
考えてみると、これは十分に成立します。大切なのは、「達成・未達成」と「完成・未完成」が、そもそも異なる観点から物事を見ているという点です。
目標も目的も、「完成・未完成」という観点から評価できます。
野菜の収穫を例にします。
達成・未達成:設定した数量に到達したか
完成・未完成:収穫という営みを、どこまで充実したものにできたか
数量を収穫できても、土を傷め、来年につながる準備を怠ったなら、目標は達成していても、農業の営みとしては未完成と言えるでしょう。
反対に、収穫量が目標に届かなくても、土を育て、作物への理解を深め、次の栽培につながる経験を得られたなら、目標は未達成でも、その年の農作業には十分な完成を見いだせるかもしれません。
目的が「農業を通じて人々の暮らしに貢献する」ことなら、その目的そのものが完了するとは限りません。しかし、今日の収穫体験で参加者に喜んでもらえたなら、その日の活動は完成したと言えます。
整理するとこうなります。
完了・未了は、営みが終わったかどうか
完成・未完成は、その営みがどのような状態にあるか
この区別を採用すれば、目的が未了のままでも、日々の活動に完成を見いだせます。
ここから見えてくる核心は、次の一点です。
目標を達成したからといって、必ずしも完成しているわけではない。目標を達成できなくても、取り組みとして完成している場合がある。
目的についても同じで、目的が未了であっても、今この瞬間の行為は完成し得ます。
これは、宮沢賢治の「永久の未完成、これ完成である」という言葉の解釈とも響き合います。未了であることと、未完成であることは同じではないのです。
さらに考えを進めると、目的と目標の関係は、単純な上下関係ではなく、いくつもの目的が入れ子になった構造として捉えられることに気づきます。
人生という目的:未了・未完成(続いていく)
農業を通じた社会への貢献:継続する目的
野菜の収穫体験:完成・完了
野菜を2キロ収穫する(目標):達成・完成
人生という大きな目的が未了であっても、その一部を成す営みは、完成し、完了することができます。
この構造の中では、四つの概念が共存します。
ただし、完成・未完成は、達成・未達成や完了・未了から自動的に決まるものではありません。それぞれが独立した観点です。
たとえば、2キロという目標を達成しても、参加者が収穫を楽しめなかったなら、収穫体験という目的は十分に完成したとは言えません。逆に、2キロに届かなくても、豊かな体験が成立することはあります。
私がこの考え方でいちばん大切だと感じるのは、次の点です。
人生という目的が未了であることは、今日の営みが未完成であることを意味しない。
人生全体は続いています。しかし、その中にある収穫体験は完成し、完了します。さらに、その体験の中で設定した目標は達成され、行為としても完成します。
大きな目的の未了と、小さな営みの完成は、矛盾しません。むしろ、人生という大きな営みが未了だからこそ、その途上にいくつもの完成を積み重ねていけるのではないでしょうか。
この見方は、アドラー心理学を理解するうえでも大きな手がかりになると感じています。
アドラー心理学の目的論では、人間の行動を、過去の原因だけでなく、その人が何を目指し、どの方向へ進もうとしているかという観点から理解します。ここに「目的の入れ子構造」を重ねると、次のような見方が生まれます。
人生全体の目的は、まだ未了である
その目的に向かう農業という営みには、日々の具体的な目的がある
野菜の収穫体験は、完成し、完了する
その中で設定した「2キロ収穫する」という目標は、達成され、行為としても完成する
人生全体の未了と、個々の営みの完成は、同時に成立するのです。
アドラーの「共同体感覚」との関係も見えてきます。他者への貢献を人生の方向性とするなら、その目的は一度の行為で完了する必要はありません。それでも、今日出会った人に喜んでもらうことはできますし、今日の活動を完成させることもできます。人生全体の完成を待つ必要はありません。
なお、ここで述べた「目的の入れ子構造」は、アドラー自身が体系化した概念ではありません。アドラー心理学を理解するための、私なりの解釈の枠組みとして受け止めていただければと思います。
最後に、一つ課題を残しておきます。完成・未完成を判断するには、何をもって完成とするかという基準が必要です。
数量のように明確な場合もあれば、本人の実感や、他者への貢献によって判断する場合もあるでしょう。この基準をどう考えるかによって、この発想はさらに深まっていくはずです。
目的が続いていることと、今この瞬間が完成していることは、矛盾しません。
人生は未了であっても、今日という一日は完成できる。
これは単なる言葉の使い分けではなく、人生をどう生きるかという問いにつながっています。「完了を待たない生」「求道すでに道である」という考え方とも、自然につながるものです。
アドラー心理学を理論として理解するだけでなく、農業という実践を通じて捉え直す。それが、Artfarm Ostinatoならではの視点になり得ると考えています。